こんにちは、一乗谷を歩き尽くした「朝倉WEB3」あさみんです!
今回はパワースポット「一乗谷朝倉氏遺跡」
この視点から迫ってみたいと思います。
<第1回 中世の一大都市復活・再興のパワースポット>
奇跡的に甦った特別なる朝倉氏遺跡
想像力&創造力を全開に思い思いの新しい遺跡の見え方、
一乗谷の歩き方が始まります!
目次
中世の一大都市『一乗谷朝倉氏遺跡』
全国に数々の史跡、名勝はあれど、
「戦国時代」「城下町」「復元」などのキーワード検索をすると、
ずらーっと、一乗谷朝倉氏遺跡が並んで表示されます。
そうなんです。
礎石、堀、庭園など発掘整備され、発見された石垣や井戸などを使って
戦国の城下町の一部がそのままの姿に復原された歴史的価値の高い特別な場所。
越前朝倉家5代の栄華を極めた一乗谷です。
今では、福井県有数の観光地として高い人気を集めています。
期待いっぱいに訪れてみると。。。
山に囲まれた僻地?
これが第一印象かもしれませんね。
栄華を極めた戦国時代の居館建物、一乗谷城など、
華々しく目に飛び込んでくるものは直ぐには見当たりません。
ということは、自力VR(バーチャル・リアリティ)の世界。
<想像&創造してみます>
一乗谷全体に形成されていた一大都市を。
<思いを馳せてみます>
それをつくり上げていた朝倉氏の栄華に。
一乗谷朝倉氏遺跡を楽しむ最大のポイント、醍醐味です!
そして、なぜ今ここ一乗谷には
朝倉氏遺跡がこのような形で遺り、私たちは目にすることができるのでしょうか。
中世の一大都市復活・再興のパワースポットをご紹介します。
秘めた力を目覚めさせたり、
普段出せない勇気や力が出たり、
運気を向上させたりと、
良い事尽くめのエネルギーに触れつながっていく接点、想像力&創造力です!
全国各地の謂われのあるパワースポット
訪れるだけで元気になれたりします。
ぷらっと一乗谷に行ってみようかなと思う、それはもう、
あなたにとっての接点かも知れません。
400年の時をかけ、甦った奇跡の朝倉家一乗谷に秘められた力。
ふわぁ~っと想像&創造がふくらんで、歴史に触れながら
プラスαの楽しい時間を過ごすために役に立つことが一つでもあれば幸いです。
作ろう!安定した王国を 朝倉家本拠地を一乗谷へ ー 戦国大名朝倉氏
建武4年 (1337)「但馬」から「越前」に本拠を移し、初代朝倉広景が築いた黒丸城。
(福井市から西北に約10㎞)
その後、7代 130年余りに亘り朝倉家代々の居城としました。
さらに文明3年(1471)朝倉孝景が本拠を黒丸から一乗谷に移し、朝倉義景までの
5代 103年に亘る栄華を極めた中世の一大都市が『一乗谷朝倉氏遺跡』
(福井市から東南に約10㎞)
※一乗谷へ移った時期については諸説あり
さまざまな氏族や国が栄枯盛衰を繰り返した戦国の乱世にあっても、
200年以上の長期に亘って安定した国家運営を実現した家中の筆頭格
それが「越前国の戦国大名 朝倉家」です。
福井平野から山地に入ってすぐの好立地で、美濃街道が通り、
南には府中守護所(武生)に通じる朝倉街道が整備されていました。
近年、遺跡北側にある安波賀中島町の水田から船着場、荷揚場の
石敷き遺構が見つかり、城下町と一体化した港湾施設が確認されました。
三国や敦賀から入る品々も扱われ、大いに栄えたと考えられます。
領国の経営はもとより、近隣諸国との外交、独自の経済活動などによって
「王国」とも呼べるような統治体制を築いていました。
防御が固く、さらに水陸の交通網を掌握する好立地にあったため、都の文化を
はじめ、海外からの文物が流入する、繁栄著しい国だったといわれます。
一乗谷朝倉氏遺跡は、2019年5月「日本遺産」に認定されました。
これまでに国の「特別史跡」・「特別名勝」・「重要文化財」として
『三重指定』(令和2年現在 全国で6例のみ)を受ける、貴重な歴史的価値の高い史跡。
中世の大都市遺跡としての「状態が良い点」「広大である点」においても
国内で他に類を見ないと評価されています。
活かそう!「自然の地形」と「計画的な整備」 ー 先進的な都市
栄華を極めるのにこれ以上ない、ふさわしい立地といわれます。
地勢的に、一乗谷は越前国の中央に位置しています。
<自然の地形>
東、西、南を山に囲まれ、北には足羽川(あすわがわ)が流れる、
地域全体が防御に適し、天然の要害になっているのです。
<計画的な整備>
・山城の築城で有事に備える
中心は、東の一乗城山(標高 475m)山頂に大規模な「一乗谷城」、
西「槙山城」、南「三峰城」、北「成願寺城」に支城を配置しています。
山城の千畳敷付近の宿直跡からは、周辺の山城、福井平野、三国港、
日本海まで見渡せる、監視の場としての役割を果たしたと想像できます。
南に月見櫓跡、北に櫓跡、さらに外側には畝状竪堀が造られ、
大変強固な防御施設であったことがうかがえます。
・土塁で敵軍の攻撃や侵入を防ぐ
谷が最も狭くなる2箇所に城下町の出入り口
北側「下城戸(しもきど)」、南側「上城戸(かみきど)」
堅牢な城門を築きます。
2つの城門に守られた
1.7kmの「城戸ノ内」が、越前の中心一乗谷エリアです。
近年、朝倉孝景が一乗谷と城下町の建設に着手する以前の南北朝時代には
安波賀に城戸が築かれていたのではないかと言われています。
・区画整備された先進的な町並
朝倉館と一乗谷川を挟んだ道路の反対側に、
武家屋敷、寺院、職人、商人の町屋が形成されています。
特筆すべきは、町屋一軒ごとに井戸とトイレの整備。
東西道路跡や南北幹線道路跡があり、30mを基準にして
都市計画された、日本有数の先進的な城下町を形成して栄えました。
城、居館と城下町一帯が国の「特別史跡」、朝倉氏遺跡全体の面積は、278 haです。
東京ドームの面積、約 4.67 ha
一乗谷朝倉氏遺跡と比較してみると。。。
なんと東京ドーム約60個分! 1坪=3.3㎡として約84万2400坪です。
ひ、ひろいー!! 見どころがたくさんありそうです!
ちなみに東京ディズニーランドは、東京ドーム 約 11 個分です。
戦国時代を代表する先進的な町造り、
このような城下町は一乗谷のほかには見当たらない、といわれています。
目指そう!希望の地、繁栄の地 越前一乗谷へ ー 城下町の人びと
ドローンでも飛ばして上空から眺めてみると一乗谷の景色、外観はこんな感じ。
・地形の利用(堅牢な構え、地域の安定)
・街道や港湾の整備(交易、経済の発展)
・都市の整備(高度な文化、技術、生活)
三位一体バランスの取れた繁栄を支える基盤、外的構えですね。
そこから、ドローンの高度をグッーと下げて見えてくるのは、
「朝倉家当主、家臣団、そして町の人びと」
この国を舞台に、それぞれの人生を生きる
一乗谷の主人公たちは如何に。
室町時代、人や物の往来が盛んで栄えていた都市とは、
もちろん!政治の中心、幕府の置かれていた京都。
そして、南蛮貿易、商業で栄えた堺。
この2都市に並び称された都市が、一乗谷。
ちょっと意外。
ですが、狭小な谷あい「城戸ノ内」だけでも人口10,000人以上!
戦国時代の幕開け ー 将軍足利家の家督争い
応仁の乱(1467~1478年)で荒れ果てた京都を多くの人びとは脱出!
朝倉家の庇護を求めて逃れて来たのは公家衆や僧侶などの文化人、医者のほか、
連歌師「宗祇」、国学者「清原宣賢」などの名前も史料に見られます。
生きる夢と希望を求め、多くの人びとが目指す地は ー「良き国、新天地、一乗谷!」
こうして一乗谷は飛躍的に発展。
華やかな文化が開花し、当時の京都にすら勝る一乗谷を「北ノ京」
人びとは、こう呼びました。
多くの公家や文化人が京都から移り、文化を育んだといわれる、越前一乗谷の朝倉文化、
周防山口の大内文化、駿府の今川文化は「戦国三大文化」と称されます。
11年も続く応仁の乱 ー
荒廃した京の町、生きる場を失い疲弊した多くの人びと
混乱と迷い。
こんな時、人はどうするのだろうか。
新天地へ抱く希望の光。。。
安泰、平和を願い、
人生のリセット、リスタートを誓って。
生きていれば何とかなる! 安らかに生きるために、そうだ!
「越前一乗谷」を目指そう!
こんな時流、気流があふれ
押し寄せた人の数と同じだけの生きる希望、願望が
一乗谷に充満していたことでしょう。
一つ一つの思いは頼りなく小さなものでも、
同志が集まれば、一致団結!
強固なものに変わっていきます。
希望が大きな一つの塊、パワーとなって、ますますの繁栄を育んだ領国。
「求めた人びと」と「受け入れた越前国主 朝倉家」
両者が共に築いた、統治体制の調う極めて華やかな一大都市です。
堅牢な一乗谷です。他所から一乗谷へ移入が許された?!
城戸ノ内には主従関係を結んだ人、許可の基準は「朝倉家之拾七ヶ条」?
能力・技術のある人、親戚・知人のコネ、職人の弟子など、役に立つことを自己PRでしょうか。時代変われど、ですかね。
思いや技術の結集が、都市構造や豊かな文化などにも現れ、
今にその歴史を伝えています。
消えた!栄華を極めた一大都市 ー 400年の眠りと約束
越前国を治めていた朝倉家を頼り、永禄8年(1565)9月に敦賀、
一乗谷には、永禄10年(1567)秋から翌年夏まで足利義昭が逗留。
朝倉貞景、孝景、義景の3代の当主に仕え、長く朝倉家を支えた、朝倉宗滴。
幕府からの要請に応え、周辺大名の争いの「仲介役」として活躍するにつれ、
幕府と朝倉家との信頼関係は深まります。
第13代将軍足利義輝が殺害されると、弟の義秋(のちの第15代将軍足利義昭)が
幕府再建の後ろ盾に朝倉義景を頼った、とはご存知の方も多いと思います。
滞在中には、親身になって後見し、
こんなことも。
朝倉館にて朝倉義景が加冠役を務め、義秋を「義昭」と改名すると共に、
元服式を執り行っています。
朝倉家と足利家が、長く深い縁で結ばれていた証でもあります。
天文21年(1552)朝倉義景は第13代将軍 足利義輝より「義」の字を与えられ、延景から改名しています。
大きな功績と厚い忠誠心が認められる特別な場合、主君から「下の一字」を賜ることがあります。「上の一字」を賜るとは、極めて異例のこと。
いかに朝倉家が足利幕府から重んじられていたのかが分かりますね。
朝倉義景は、改名と同時に幕府の一等官「左衛門督(さえもんのかみ)」に任官。
歴代朝倉家一高い地位を賜りました。
また、管領の細川晴元の娘を正室に迎え、幕府との関係はより親密なものとなります。
衰退の一途にあった幕府にとって、朝倉家の財力と力は大きな後ろ盾になっていきます。
※管領:将軍を補佐し、内外の政務を統轄する職名。三管領は斯波・細川・畠山氏。
将軍を迎えるほど、安定し、栄え、信頼も厚い一乗谷朝倉家でしたが。。。
運命の歯車が大きく動いて行きます。
天正元年(1573)8月
一乗谷城の戦いに敗れ、100年以上続いた繁栄極まる巨大都市は、
三日三晩炎に包まれ、すべてが灰燼に帰してしまいます。
一乗谷の「繁栄の姿」は失われ、歴史の表舞台から消え去り、
大地に沈む静かな眠りの時が訪れます。
焼け野原には「約束」だけが残され、時の彼方に忘れ去られていきました。
覚醒!栄華を極めた一大都市 ー 稀有な場所
遙か昔々に朝倉家と城下町に生きた人びとの舞台には、
THE END の幕が下りました。
再び。。。そんなこと有り得ません、普通は。
ところが、
そこには「続きの物語」がありました!
ここが、「稀有な場所」と言われる一乗谷ですね。
未来永劫とも思われる、気の遠くなるような時間。。。
奇跡的な条件をことごとく CLEAR して、ついに『その時』に到るのです。
焼け野原に残された大切な「約束」が、果たされる時。
ゆっくりゆっくり自然解凍されるように目を覚まし、第2幕開演の時を告げます。
400年以上もの時を経て大地の中から
再び姿を現わし、現代に甦った稀有な場所 ー 一乗谷
「発掘と復原」の努力と成果により誰の目にもその存在が明らかになりました。
覇者とはいかなることなのだろうか。
目の前に見えていることがすべてなのだろうか。
誰にも語られていない真実をくみ取る手がかりはないのだろうか。
そんなふうに考える余地を与えてくれる場所。
可能性や秘めた何かを感じられる場所。
壮大な「パワースポット」の成せる業と感じませんか。
後世の私たちに何を伝えてくれているのでしょう。
日本で初めてわかった、戦国大名の居館と城下町遺跡。
一乗谷から開示された中世一大都市の考古学的史料の価値は非常に大きいです。
では、
CLEARした、その奇跡的な条件とは?
パワースポット「一乗谷朝倉氏遺跡」
第2回は「パワースポットたる所以」にて迫ります!
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
278 ha って、どれくらいの面積なのでしょうか。
< 1 ha >は、サッカーフィールドより少し大きいくらいの広さです。
体感的にイメージできたでしょうか? チョットおさらい(^^)/